あたーにーあっとろーとは?

  • Winny制作者金子勇氏
    こと博士の素顔があまりにも面白いので、弁護人である私の目から、事件を振り返ってつれづれなるままに書きつづってみるものです。 2月15日更新

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-天気予報コム-

2008年2月15日 (金)

一夜あけて

博士は、いつも黒いお弁当箱のようなパソコンを持ち歩いている。私は、10年来のレッツラー(パナソニックのLet's noteシリーズを愛している人)なので、このあたりは意見が合わない。博士は赤いポッチがお好きなようである。パソコンだけなのはチト心配だが。

そんな博士も保釈直後はパソコンが無い。全部差し押さえられてたんだからあたりまえか。ということで、珍しくパソコンはおろか携帯電話もない丸腰の状況で博士はホテルに宿泊した。

博士には、翌日の12時にホテルのフロント前で待ち合わせることで約束して私は帰った。待ち合わせが12時になったのは、疲れているであろうから、朝はゆっくりして朝食でものんびりとらせてあげようという配慮と、不動産の決済に立会いが入っていた(保釈が6月1日に認められることを前提にスケジュールを組んでいたのが、強気な私らしい。)ので昼からしか都合がつかなかったことからである。

前日の祝杯ですこし疲れ気味のまま、不動産決済は進み、予定よりも少し長引いた。私がホテルについたのは10分ほど遅れてのことである。

フロントを見渡すと、みな身なりのきっちりした人ばかりである。博士が見あたらない。吹き抜けになっている2階から1階を見渡した。喫茶店にもいない。

「もしかして保釈取消しで身柄を持って行かれたのか?」

「ジャーナリストの突撃をくらったか?」

「どこかに逃亡したのか?」…博士だけにそれはありえん。

「まだホテルで寝てるか?」

いろいろな心配が、頭のなかを駆けめぐった。嫌な汗がでてきた。喉が急に乾いてきた。

フロントに博士がどうなっているか尋ねた。博士はすでにチェックアウトした様子である。

「まだ、遠くには行ってないはず」

私は2階からタクシー乗り場に出て、不審な自動車がいないか確認した。特になにも見あたらない。

「もしかして、待ち合わせ場所を間違えたのか?」

事務所に電話をして、博士が事務所に来ていないか確認してみた。来ていない。事務所の場所が分かるわけがないので当たり前である。

1階に降りて探してみた。いない。

ホテルを出て周辺のベンチを探してみた。ここにもいない。

このあたりで私の心臓からドキドキという鼓動が聞こえてきた。

かくなる上は聞き込みしかない。私は、喫茶店の1階のウエイトレスに尋ねた。

「髪の毛ボサボサでボロな鞄をもった人を見ませんでしたか?」

私の聞き方もたいがいである。こんな聞き方では、秋葉原では多すぎて答えようがないが、ここは高級ホテルである。ウエイトレスはすぐに答えた。

「たぶんあの人だと思います。あちらに座ってますよ。」

私は、ウエイトレスに導かれて奥に行った。そこにいたのは、

見つかりにくい奥まったところで、川を愛でながらコーヒーを飲んでいる博士であった。

…そんなところで風流なことをしててどうするんだ!

私、「なんで、ちゃんとフロントで待たないんですか。」

博士「いやーすることも無くて暇だったし。」

私「だったら、見つけやすいところにいてください。」

博士「そういやそうですね。ハハハ!」

博士はのんきそうに笑った。

それから、博士と私は一緒に昼食をすることにした。警察では生魚は食べれなかったということで、ちょっと贅沢に寿司屋である。しかし、大衆的なお店にしか行く勇気がないところが博士と私である。

「いやー、久々の外の世界なんで、何食っても美味いですねぇ。ハハハ」

博士はご機嫌である。そんな博士を見て、私もそれ以上言うことを止めることにした。

その日は、事務所に立ち寄って、寄付金の残りを引継ぎして、事務連絡と、保釈の説明をして、最後に元気な姿を支援者のみんなに見せるために記念撮影をして、博士は東京に帰って行った。

Hosyakukinen_3   

これが記念写真で左が博士、後ろが桂団長なのだが、私の目が微妙に怖いのは、こんなことがあったからなのかもしれない。

2008年2月10日 (日)

支援金口座

時期は先後するが。

天才プログラマの新井俊一氏から電話があったのは、5月11日の事だった。

新井氏は、これまで弁護士に電話をしたことがなかったのであろうか、自分と博士とのつながりについて、IPAの未踏ソフトウェア時代から順番に話しを始めた。あまりに遠回りな話に少しイライラした私が、「弁護人です。間違いない」と話をすると、ホッとしたように、ようやく本論に入ってくれた。

2ちゃんねるでは、47氏の弁護費用を寄付するスレッドが開設されていて、そこで寄付口座を作ることになり、新井氏が寄付金の口座を開設したが、寄付する人が安心して寄付できるように、弁護団の弁護士の名前で口座を開設して欲しいということであった。

博士は、2ちゃんねるでは、「47氏」と呼ばれていたらしい。2ちゃんねるでは、最初に書き込みをした番号をペンネームのように使うことが習慣として行われていて、Winnyの開発を宣言したのが47番目の書き込みなので、博士は47氏なのである。ただ、私自身は、この名前は四十七士と勘違いして、忠臣蔵よろしく博士に切腹させたがる輩を誘発するのであんまり気に入っていない。

私は、そのとき、シャチハタ男になっていた博士の対策で頭を悩ましていたので、それどころでは無かった。しかし、来るべき保釈申請時に問題になるのは保釈金である。そのためには少しでも保釈金を用意する必要がある。

ようやく口座を開設するに至ったのは5月13日のことである。とにもかくにも、口座を作った以上報告をしなくてはならない。私は5月14日に銀行に記帳に行ってみた。

「ウィーン、ウィーン、ウィーン、ウィーン」

通帳はATMからいつまでたっても出てこない。もしかして、ATMを壊してしまったかもしれないと焦り始めたころ、ようやく記帳が終わった。結局、5月14日の1日だけで、105名から合計123万円の支援金が振り込まれていたのである。

振込名義も

「カネコオウエン」

「47シガンバレ」

等の励ましの文言が多かった。

「博士の無罪は本当に多くの人の願いなんだ。」

私は、これを見てようやく、私が弁護しなくてはならないものの大切さを理解した。

他にも、2ちゃんねる発で、金子氏支援のためにTシャツを販売して収益を寄付してもらえるという活動もあった。これにも頭が下がる思いである。

私は、これまで、2ちゃんねるというものに対して偏見を持っていた。正直なところ、2ちゃんねるの利用者は烏合の衆だと思っていたし、そこまでの義侠心があるとは思っていなかった。しかし、マスコミが司法記者クラブという枠の中にとらわれ警察発表の記載に終始している状況で、2ちゃんねるは自ら意見を述べ、活動する場としても使われているのである。彼らは2ちゃんねらーという異次元の世界の人ではなく、この社会のどこかにいる生身の人間なのである。そのときそう感じた。

結局支援金は、1ヶ月弱の間で合計1600万円にものぼった。

私は、保釈申請の際の裁判官との面談時には、裁判官に対して

「逃亡の恐れというのであれば、すぐにでも、1年間、京都のホテルをかりるてくることも出来る。彼は逃げる必要などない!」

なんて強気の発言をしていたのであるが、それは皆さんの支援のおかげだったりする。

私は、事件が大変なときはいつも、10冊の通帳を手にとって眺める。そうやって、多くの人から励ましを受けているのである。

この事件の本当の依頼者は彼らなのかもしれない。

ちなみに、博士と2ちゃんねるは、またの機会に。

2007年3月31日 (土)

博士の一分

とりあえず、「長い1日」の結果、博士の保釈は決定した。

保釈の日、博士を乗せて我々は、とりあえず、弁護団の一員の事務所に行って、関係者に保釈が出たことを知らせた。

保釈には、面談禁止の条件があるので、博士が姉に直接連絡をすることもできない。そういうこともあって、博士が連絡できるところと、そうでないところに分けて、分担して報告とお礼をしたのである。

そして、生活について、再度博士に注意を促すことにした。

面談禁止があること、証拠隠滅と言われるような行為をしないこと、勝手に旅行に行かないこと、常に連絡とれるように携帯電話を持っておくこと等々…。

博士は、

「はぁ」

と答えていた。

弁護団としては、博士に再度の捜索差押えがなされることをもっとも心配していた。そこで、弁護団の一員が金子氏に「しばらくはパソコンを使わないように」と言ったとき、博士は答えた。

「やだ!」

「PCできないくらいなら、拘置所に戻ったほうがまし!」

「拘置所ならちゃんと三食出るし。」

我々は、博士の刑務所で年越しする人みたいな発言に苦笑であった。

でも、博士にプログラムをするなということは、死ねと言っているのと同じなのだろうと、妙に納得である。

Winnyというソフトウェアは、博士の性格を引き写ししている。

このときが、そうおもった最初のことである。

2007年2月10日 (土)

長い1日

博士の起訴が決まってまずしたことは保釈の申し立てである

日本では保釈は検察官が起訴した後にしか認められないからである。

この事件で、博士が拘置所にいれば勝利はありえないことは分かっていた。しかし、日本は保釈率が異常に低い。無罪を主張していたらまず保釈はでない。映画もびっくりな異常な世界が日本の刑事司法の常識だったりするのである。

保釈前の裁判官と面談が保釈成功のための正念場であった。裁判官は得てして優秀な人が多いのであるが、面談に対応した裁判官は特に切れ者の雰囲気であった。一番困るのは、何となくよく分からないから検察官の言うようにという裁判官である。絶望的な状況ではあったが、彼ならというかすかな期待があった。

翌日、500万円というこの手の事案では高い保釈金と一部の者の面談禁止を条件に保釈を認める決定が出た。裁判官としてもギリギリであったのだろう。よく保釈を認めたと今でも思う。

しかし、世の中そんなに甘くない。すかさず保釈の取り消しを求めて、検察官から準抗告・執行停止の申し立てがなされたのである。

長い長い1日の始まりである。

裁判所からは公判があるらしく準抗告はすぐに判断できないという連絡が入った。書記官からはもしかして追加の保釈金を求めるかも知れないのでとか言ってくるのであわてて銀行に行ってお金をおろしたり、さすがに引き出しすぎだろと少し戻したり、その間に検察からは拘置所に移管したという連絡が入ったり、マスコミから取材希望の電話がかかってくるので断ったり、マスコミから拘置所に移したかどうかを確認してきたりするので知らないと言ってみたり、夜も遅くなったので、その日のうちに準抗告が棄却されたらその日のうちに釈放するように検察に交渉したり、その間にパソコンを開いてカタカタ他の仕事をしてみたり。

結局、準抗告が認められず保釈が決まったのは夜の10時前であった。

裁判所から京都の拘置所までクルマで少し行く必要がある。拘置所に着いたら、マスコミだらけであった。この手の報道は顔を写すのが必須である。

私は、疲れている博士の顔を写させないことにしていた。なぜなら、疲れた顔は誰でも犯罪者のように見えるからである。

逮捕直後のダサいベストの格好は最悪であった。

同じことになってはいけない。しかも、保釈の際の写真は場合によれば何度も使われる。撮られるならば元気になったところで撮影されることを考えていたのである。

拘置所では、ライトの担当者がこちらを照らしてくる。

「こりゃやっとれんわ」

と、拘置所の職員さんに御願いして、ガレージの中でクルマに乗せることにした。クルマに乗る際が最大のシャッターチャンスだからである。ガレージにクルマを入れると分かった瞬間怒号が飛んできた。

「何で撮らせねぇんだ」

見ると明らかにその手の週刊誌の突撃系カメラマンである。

「お前さんが撮るからだろうが。」

と私はつぶやいた。ケンカや説得をする気力もない。私も長い準抗告に憔悴しきっていたのである。

そうしているうちに、

「どうも」

といつもの調子でガレージに博士が現れた。チェックのシャツを着て鞄を持っていた。

「オタクシャツや」

私の第一印象はそうであった。

博士は、あくびをしていた。なぜかと私が聞いた。

「いや、寝てましたので…」

「まぁ、本人は、特にすることもないですから」

みんなが博士を巡ってバタバタしている中、本当に寝ていたらしい。大抵の場合は寝ろと言われても寝れないのが通常なのであるが、博士の相変わらずののどかな芸風に少し苦笑して、すこし癒された。

さぁ、脱出である。

自動車は2台用意していた。両方とも弁護団のメンバーのである。1台は二人が博士の横に乗り込み、もう1台は私が運転して撮影をさせにくくする方針であった。

クルマで拘置所を出ようとする際には、マスコミの興奮も恐ろしい状態になっていた。

まず、私がクルマで出ようとしたとき、一人の突撃系カメラマンが、私の車の前に倒れ込んでカメラをパシャパシャしてきた。

「残念、このクルマには乗ってませーん。」

クラクションを鳴らしながら。私は言った。一人しかいない車内なのに大きな声を出す自分でビックリした。2台目のクルマが通る際にはフラッシュやら、ライトやらがすごい状況だったが、後部座席にはスモークが張っているし、隣には弁護団のメンバーが座っているので写真は撮りにくい。

なんとかマスコミを振り切って、私はクルマを大阪に走らせた。京都にいると、ホテルがばれると突撃系ジャーナリストが出てくるかも知れないからである。

大阪についたら12時ころである。久々のシャバである、良い朝食を食べさせてあげようと、最低限の連絡を終えたあと、ちょっと奮発したホテルを押さえてホテルに連れて行った。

その後、私は、つかの間の勝利の美酒を味わった。

私にとって、捜査弁護で一番辛かったのは、酒を飲めないことであった。

睡眠時間3時間だと飲んだら起きたときもアルコールが残っているような気分なので飲めなかったのである。私は一人で乾杯するとともに、これから続く長い戦いを思い描いていた

2007年1月 1日 (月)

ファーストインパクト

実は、検察官との交渉状況を書こうとおもっていた。

ある意味ドラマのようなやりとりがあったのだが、本当にあったことをそのまんま書いたら、フィクションって言っても許してくれないだろうし、検察官から「捜査の秘密を侵した」とか、よく分からない苦情が飛んで来たらめんどくさいので飛ばしておく。

いつか、許される形で世に出してみたいものである。

2006年12月11日 (月)

そこに山があるから

時期は前後すると思うが判決に前に書いておきたかったので。

博士を弁護するうえで、自分自身どうしても知りたかったことは、

「なぜ、Winnyを作ったのか」

である。

警察側は、コンテンツビジネスを媒体中心からデジタルコンテンツ中心へと変革させるために、著作権侵害を蔓延させようという目的で開発公開したなどと言っていて、ガンガン報道されていた。しかし、

コンテンツビジネスを変革させるためにネットでのコンテンツ流通を無法地帯にするのはコンテンツビジネスの変革にとってマイナスでしかない。

警察側のストーリーがでっち上げであることははっきりしている。

ただ、本当はなぜWinnyを作っのかと言われると「?」だったのである。なぜWinnyはビジネス的に洗練されていないのか、なぜWinnyは無償で公開されたのだろうか。そもそも、Winnyは何を目指していたのだろうか。謎はつきない。

博士との接見は、検察側の接見指定のために十分な時間をとれなかった。じっくり話をすることができたのは、博士が起訴される数日前であった。

その日、私は、博士に、検察がメンツのために何が何でも起訴に持ち込むことや、起訴になれば保釈申立をするが現在の刑事司法では保釈はなかなか認められないこと等の説明をしたうえで、それまでずっと疑問だったWinnyについて話をすることにした。

「Winny2の掲示板って将来的にはどうやって同期とる予定だったの?」

「あぁ、あれは、デジタル認証を組み合わせて、管理者だけが管理できるようにするつもりだったんです。やるまえに警察が来てWinnyの開発するなっていわれちゃいましたけどね。」

「でも、書き込みの順番とかどう管理するの?」

「掲示板のデータにバージョンを記録しておいて、書き込んだらバージョンがあがって…」

博士は、プログラムのことになると楽しげである。本当にプログラムが好きなんだ…。そう思った私はある提案をすることにした。

「もし、保釈がとれたら、コンテンツホルダーにメリットのある方法を考えていこうよ」

「そもそも、私、検討していたんですよ。暗号化してお金を払った人だけ暗号の鍵をもらうような方法。でも、誰かが暗号を解いたものを流通したら止めれない。そういうファイルだけ止めようとしても、ファイルの一部を変えちゃうと別のファイルと認識されるのでいくらでもすり抜けられるんで、無理だと思ったんです。」

「そういう場合でもビジネスを考えればできることがあるはずでしょ。広告を組み合わせる方法であれば流れても問題ないし、音楽も場合によっては3か月間暗号がもてば十分なものがあるし、やり方によってはWinnyを使ったビジネスっていくらでもあるはずだから」

「私、実は、掲示板のデジタル認証をファイル共有に応用して管理する方法考えていたんですよ。」

「え!」「どうやるの」

「管理者を決めて、管理者がデジタル認証つけて、このファイルを消せって信号を送ったら管理者の命令はみんなが信用してファイルを消す。」

「それって、無視機能をノードに強制するってこと?ハッキングされない?」

私としては、博士が管理機能を考えていたことは驚きであった。しかし、無視機能の応用ってWinnyの開発からすれば必然の流れではないか。

「ハッキングも大丈夫だと思いますよ。いや、待てよ…んー…、そっか…」

博士は、接見室で新システムの基本設計を始めたようである。その姿を見て、私は博士がなぜWinnyを作ったか確信した。

「そこに山があったから登ったんだ。」

私にとって、サラリーマンのような人ばかりの日本に、まだ、本当の技術者がいたことは驚きであった。技術者をサイバーテロリスト扱いさせてはならない。むしろ、彼こそが、将来のデジタルコンテンツに必要な人材じゃないか。

「そこまで考えているんだったら、場所は絶対に用意する。一緒にやろう」

私がそういったとき、博士の答えは得意の「はぁ。」では無かった。

「わかりました」

その日、博士は依頼者から同志になった。

2006年11月29日 (水)

協力?凶力?

逮捕された2日後である5月12日に接見担当の京都の弁護士から接見の報告が入った。どうも博士が「いろんな人が来てごちゃごちゃしてるので、整理してもらえません?」と言っているらしい。

 やばい…。

 たしかに、その時点では弁護団も無く情報も錯綜していた。しかし、そんなことが問題なのではない。被疑者がこのようなことを言うときは得てして弁護人に不信感を持っているときである。捜査弁護は検察と弁護側の綱引きである。被疑者が弁護側よりも捜査側になびいている場合事件は最悪の結果となる。

雑談であるが、人はなぜか自分で捜査側の取り調べに対応できるという幻想を抱きがちである。ドラマの見過ぎが原因なのだろうか?

しかし、取調室は密室である。もし、あなたが、取調室で、一生懸命、自分の潔白を語ったとしても、そんなことは調書には記載されない。被疑者を有罪にするための証拠に被疑者に有利なことを書くわけがないのである。

逆に、どんなに、作文した調書であっても署名をした瞬間、刑事訴訟法上は自分が喋ったのと同じに扱われる。そんな調書に署名をするわけがないと思うかもしれないが、そこを署名させるのが、捜査側のテクニックでありドラマに出てこない部分なのである。

 とにもかくにも、被疑者の混乱を解消する必要がある!そう思い、私は、新幹線に飛び乗った。新大阪←→京都の新幹線はとても贅沢であるがそんなことは言っていられない。

五条警察にたどり着いて接見室に入ると、アクリル板の向こうにテレビのニュースで見たような顔があった。いや、実際には、髪の毛ボサボサで、暗い顔をして、警戒心満々なので人相はニュースより悪いかもしれない。私が名を名乗るとようやく「あぁ、壇さんですか」と少し警戒心を解いた感じであった。

のんびり話をしている暇はない。弁護団が結成されたこと、今回の事件は事案の把握を急いでいること、こちらの状況を説明して混乱を解消した。そして、最後に、取り調べについて「自分が納得いかない調書に署名しないように」と言ったところ、博士からは「はぁー」と気の抜けたような返事が返ってきた。博士は、納得していない場合にそのような返事をすると知ったのは、ずいぶん後のことである。そのときは時間もないので私は大阪に帰ることにした。

その日の夜に、博士が検察側の作文調書に署名したという報告が入ったのは翌日の朝の接見報告である。

前提知識として、被疑者は勾留の前に、裁判所に行き、その際に裁判官から容疑に関して罪を認めるか等の質問を受けるのである。これを勾留質問というが、勾留質問時の発言は調書に記録される。

博士は、12日に勾留質問で裁判所に行ったところ、著作権侵害蔓延目的について否定したのである。いつでもどこでも聞かれたらそう答えているのであるから裁判所で答えるのは当然である。しかし、その報告を聞いて慌てたのは検察である。その日の夜に警察まで行って、博士に対して、裁判所での発言は嘘だという調書に署名させたのである。

私は、報告をみて「あのシャチハタ男をどうにかしろ!」と声を荒げた。その日の夜に無理矢理時間を作って接見に行くことにした。その日の接見の申し込みは難航した。事前に連絡していたのにもかかわらず、検察は「いやー、調書に署名させるだけなんで、ちょっとまってもらえませんか。」しかし、署名させてからでは遅いに決まっている。なんとか5分だけと言うことで署名前に接見にこぎ着けた。

私は、博士にまず、「ここで、どんな調書に署名しても、裁判所で正しいことを喋れば、裁判官は、自分のことを信用してくれるはずだと思っていませんか」と聞いた。すると。博士は「はい」と答えた。やはり!博士は日本の調書裁判を侮っている。私は、「日本の裁判所はそんなに甘くないですよ。そんなことでどうするんですか。迷惑かけて。日本の技術者はどうするんですか。」と言いながら、支援のメールをプリントしたものを取り出した。博士に事態を理解してもらうためには、必要だと判断して持参したのである。

このメールアドレスは、支援の声を聞くために弁護団が開設していたのであるが、多くの者が博士を心配し、今回の事件の不当性を訴えていた。ただ、中には最新のウイルス送ってくる迷惑なやつもいたが…。

「ほら、皆さんが応援してくれてますよ。技術者の人がいっぱいいます。○○○さんも、メール送ってますよ。みんなのために戦わなくてはいけないんじゃないですか。」

博士は、「○○○さんも、メールくれているんですね。」と答え、一瞬間があいて「分かりました。私は、自分のためじゃなく、みんなのために戦います。」とキッパリと答えた。私のサムアップ対して、博士もサムアップを返したとき、もう大丈夫だと確信が生まれた。

博士が、捜査側の質問に答えないようにしたという報告が入ったのは、翌日の朝の報告である。検察官は最初話を聞いてくれるような感じだったのだけれど、信用できないと分かったので黙秘することにしたらしい。私は、「それもまた、えらくまた、極端な話やねぇ。」とつぶやいてニヤリと笑った。

 

後日、なぜ、何でもかんでも署名していたかについて話を聞く機会があった。そのとき、博士は、「いやー、天下の警察・検察が署名しろって言ったから、まぁ、そういうものかなと思ったんですよ。ちょっと協力的すぎましたね。ハハハ」

…そんな協力は嫌だ!

2006年11月27日 (月)

弁護団

弁護団は、弁護戦略から逆算された部分がある。

この事件は、刑事弁護と著作権法とITとが複雑に入り組んだ事件である。さらに、海外の判例・論文を検討できる人が必要である。また、警察からリークされた博士のネガティブ情報を打ち破るメディア対応も必要である。裁判所を説得するような法理論の構築も必要である。やりたいことは山ほどあったのである。

ところで、刑事弁護と著作権法とサイバー法であるが、このうち2つに詳しい弁護士はいるが、3つすべてにスペシャリストな弁護士はいない。しかも、刑事弁護のスペシャリストはみんな過労死寸前の状況だし、関西にサイバー法に詳しい人は少なく、詳しくても訴訟の戦闘力に欠ける人が多い。著作権法に詳しく刑事弁護をこなす人はサイバー法よりもさらに希有な存在である。

弁護団の結集は難航が予想されたが、予想よりも恵まれたメンバーに加入してもらえることができた。大阪や京都の刑事弁護委員会所属のメンバーにより、弁護は竹槍からガトリングガンなみに進化した。メルボルン事件に参加している弁護士や国際法律特許を構える弁護士に参加してもらえたことで、海外判例はおろか国内の法理論も理論武装できた。

ちなみに、メディア対応であるが、これが一番難しかった。事務所の先輩で桂弁護士が、関西のテレビ局に出演していたので、これは幸いとばかりに団長をお願いしたのであるが、テレビ慣れしているはずの桂団長がカミカミで弁護側の弁論要旨の最後を締めくくっていたのはちょっとした笑い話である…。

弁護団が初めて弁護団のメンバーと顔合わせしたのは保釈後のことである。弁護団での会食の際、無罪獲得のために戦う弁護団に囲まれて博士は言った。

「私も無罪になったらうれしいんですが、私が有罪になって世の中が良くなるなら、それを最優先にしてください。遠慮無く有罪にしてもらって良いですから。」

それを聞いて弁護団は「今、それを言うかぁ」と皆沈黙であった。

ただ、こんな純真というか世間知らずの博士だからこそ、弁護団も弁護に駆り立てられているのかもしれない。この弁護が博士という絶滅危惧品種の保存であるというのはある意味真実である。ともかく、数多くの接見をこなし、証拠や法的検討を熱心にこなす戦闘力あるメンバーに恵まれたのが、今回の弁護活動の最大の幸運だったのだと思う。

弁護団の中には、諸般の事情で弁護団から脱退した者もいる。武久秀浩弁護士はその一人である。彼は、最初に博士に接見した人物で、弁護団の京都メンバーの集結に尽力し、精力的に捜査弁護活動をしていた。残念なことに弁護団脱退後、私が彼に対面できたのは彼の告別式であった。もし、この事件で勝利が得られたのであれば、そのいくらかは失われた若き才能によるものであることをここに標しておきたい。

2006年10月21日 (土)

とにもかくにも

私が、まずしたことは、保釈までのスケジュール作りであった。

現在の裁判所は、「令状の自動販売機」とも呼ばれていて、警察・検察が請求すれば、まず、23日間の身柄拘束は避けられない。保釈というのは起訴後にしか認められないので起訴日はおそらく勾留満期である5月31日。すると、その時点で保釈申立しても検察官は徹底抗戦するだろうから身柄が解放されるのは翌日6月1日。

もっとも、当時の刑事事件で否認している者に保釈が認められるのはまれで、私たちが人質司法と呼んでいるところである。しかし、難しいからといっても、Winnyの全てを知っている人間を手元に置くことが私達の最大の武器になることは解っていた。保釈無しに勝利はありえない。だからこそ、6月1日をXデーと決めて、そこから逆算して、その他の手続のスケジュールを組んだのである。

ただ、保釈が出なかったら、世間の動揺(動揺というより批判かもしれない)が大きいので、Xデーを一部の人だけにしか伝えてないところが、私の弱気なところであったりする。

ところで、23日間にしなくてはいけないことを書き出してみるととても多い。覚えているだけをざーっと挙げるとこんな感じである。(思い出したら、足すかもしれない)勾留に対する準抗告申立書の作成、準抗告に関する裁判官との面談、勾留理由開示公判、勾留理由に関する求釈明書の作成、勾留理由開示請求についての意見書作成、勾留延長前の検察官との面談、勾留延長に対する準抗告、準抗告に関する裁判官との面談、特別抗告申立、起訴前に検察官に対する面談申入れ、検察官に対する意見書作成、保釈申立書作成、保釈に関する裁判官との面談。

しかも、これは、単に手続に関するものだけである。被疑者を励ますためには1日2回くらい接見に行かねばならないし、今後の公判を見据えたとき、いろんな能力の弁護士が必要となってくる。また、大きな事件では、逮捕と同時に、どこかからリークされたとしか思えないような、被疑者ネガティブ情報がマスコミに流れる。この事件もばっちりと流れていた。メディア戦でやられっぱなしも腹が立つので対策が必要である。

そして、なによりもまず、多くの情報を収集する必要があった。この時期は事案の概要がほとんど把握できていなかったのである。「ダウンロード板?なんじゃそりゃ」である。そこまで考えて手が止まった

「こんな事件1人や2人じゃできんわ」

と言うわけで、次にしたことは、弁護団を集めることと、接見のために弁護人の数制限超過の許可申請書の作成だったのである。私が、初めて博士に会うのは後日のことであった。

参考 刑事訴訟規則27条1項「被疑者の弁護人の数は、各被疑者について三人を超えることが出来ない。但し…裁判所が特別の事情があるものと認めて許可をした場合は、この限りではない。」

2006年9月18日 (月)

あの一言が全ての始まりであった。

「正犯を弁護する気はないけど、もし、開発者が逮捕されたら全力でやりますよ。」

何を食べていたかはもう覚えていないが、IT法の勉強会のあとの食事の際にふと漏らした弁護宣言が、長く続く弁護活動の始まりだったのである。

この発言が私が弁護の意欲を示しているかと言えば実はそうではない。当時は、ファイルローグ中間判決を始め、当時、ファイル共有ソフトと著作権の問題について、日本でも民事の判決が出てきていたころであった。ところで、裁判所はこの手の事案については、アメリカの判決を参考にすることが多い。そして、アメリカではサーバで管理するタイプのハイブリッド型P2Pについては著作権侵害の責任を認め、Winnyと同じようなサーバを用いない純粋型P2Pのファイル共有ソフトについては、2003年4月にアメリカ連邦地方裁判所が責任を否定する判決を下していたのである。というわけで、当時はハイブリッド型P2Pであれば責任を負うが、純粋型P2Pであれば責任を負わないであろうという風潮があった。まして、民事事件であればともかく、刑事事件となることはありえないと思っていた。

というわけで、私は、逮捕はありえんだろうという予測の元に大口叩いていただけである。

私は、Winnyというファイル共有ソフトがあることは、某事件の関係で知っていた。プロキシ機能を備えたファイル共有ソフトという説明を聞いていた。クラスタ化も自動ダウンロードもこれからのスタンダードになるだろうと思っていた。要するに、私としては、Winnyはコロンブスの卵みたいなソフトだと理解していた。また、当時、DRMを付けてたデジタルコンテンツを、ファイル共有ソフトで流通させるビジネス化への新しい試みが始まりつつあった。私は、それを見て、「日本もまだまだ捨てたもんじゃないな。」なんて評論家みたいな気楽なことを言っていたのである。

そんな甘い気持ちは2004年5月10日にぶっ飛んだのである。当時、私は、サイバー法の勉強会のメンバーと本の執筆を終えたところであった。ゴールデンウィークを返上して執筆して、あとはゲラ稿をチェックして索引をつけて完成だ(ちなみに、それから進んでいない。この場を借りて改めてお詫びします。)。5月17日提訴予定のyahooBB!個人情報漏洩事件の訴状を提出して、休日返上生活から解放されたら遅ればせながらのお休みをもらおうなんて考えていた。そんなところに、博士が逮捕されたというニュースが飛び込んできたのである。

すかさず、知り合いの弁護士から連絡があった。

「壇君、開発者が捕まったら弁護するって言ってたよね。」

そうだった…。サイバー法の世界は狭いのを忘れていた。大阪でサイバー法を志す人は大抵が顔見知りである。そんなところで弁護宣言をしたらどうなるか予想すべきであった。と言うわけで、一日3時間睡眠の捜査弁護に突入していったのである。

こうやって、始まった事件であるが、今では大変な目にあったと思うのが半分、やりがいのある事件に出会えて感謝の思いが半分である。

博士は、

「ある意味、今回の件は、警察に捕まったらどうなるかという実験ですね。おかげで法律の専門家の人とかビジネスのプロとかに出会えたし。」

と曰われた。

博士!そんな危険な実験は、もう勘弁してください…。

«あのとき男の子はみんなプログラマだった。