あたーにーあっとろーとは?

  • Winny制作者金子勇氏
    こと博士の素顔があまりにも面白いので、弁護人である私の目から、事件を振り返ってつれづれなるままに書きつづってみる、壇弁護士の事務室のスピンアウトブログです。

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2006年11月29日 (水)

協力?凶力?

逮捕された2日後である平成16年5月12日に接見担当の京都の弁護士から接見の報告が入った。

どうも博士が 「いろんな人が来てごちゃごちゃしてるので、整理してもらえません?」 と言っているらしい。

やばい…。

たしかに、その時点では弁護団も無く情報も錯綜していた。 しかし、そんなことが問題なのではない。

被疑者がこのようなことを言うときは得てして弁護人に不信感を持っているときである。

捜査弁護は検察と弁護側の綱引きである。
被疑者が弁護側よりも捜査側になびいている場合事件は最悪の結果となる。


雑談であるが、人はなぜか自分で捜査側の取り調べに対応できるという幻想を抱きがちである。

ドラマの見過ぎが原因なのだろうか?

しかし、取調室は密室である。 もし、あなたが、取調室で、一生懸命、自分の潔白を語ったとしても、そんなことは調書には記載されない。被疑者を有罪にするための証拠に被疑者に有利なことを書くわけがないのである。

逆に、どんなに、作文した調書であっても署名をした瞬間、刑事訴訟法上は自分が喋ったのと同じに扱われる。

そんな調書に署名をするわけがないと思うかもしれないが、そこを署名させるのが、捜査側のテクニックでありドラマに出てこない部分なのである。


とにもかくにも、被疑者の混乱を解消する必要がある!

そう思い、私は、新幹線に飛び乗った。新大阪←→京都の新幹線はとても贅沢であるがそんなことは言っていられない。

五条警察にたどり着いて接見室に入ると、アクリル板の向こうにテレビのニュースで見たような顔があった。

いや、実際には、髪の毛ボサボサで、暗い顔をして、警戒心満々なので人相はニュースより悪いかもしれない。

私が名を名乗るとようやく 「あぁ、壇さんですか」 と少し警戒心を解いた感じであった。

のんびり話をしている暇はない。弁護団が結成されたこと、今回の事件は事案の把握を急いでいること、こちらの状況を説明して混乱を解消した。

そして、最後に、取り調べについて 「自分が納得いかない調書に署名しないように」 と言ったところ、博士からは 「はぁー」 と気の抜けたような返事が返ってきた。

博士は、納得していない場合に「はぁー」と答えるのを知ったのは、ずいぶん後のことである。

そのときは時間もないので私は大阪に帰ることにした。

 

その日の夜に、博士が検察側の作文調書に署名したという報告が入ったのは翌日の朝の接見報告である。

被疑者は勾留の前に、裁判所に行き、その際に裁判官から容疑に関して罪を認めるか等の質問を受けるのである。これを勾留質問というが、勾留質問時の発言は調書に記録される。

博士は、12日に勾留質問で裁判所に行ったところ、著作権侵害蔓延目的について否定したのである。 いつでもどこでも聞かれたらそう答えているのであるから裁判所で答えるのは当然である。

しかし、その報告を聞いて慌てたのは検察である。 その日の夜に警察まで行って、博士に対して、裁判所での発言は嘘だという調書に署名させたのである。

私は、報告をみて 「あのシャチハタ男をどうにかしろ!」 と声を荒げた。


私は、その日の夜に無理矢理時間を作って接見に行くことにした。

しかし、その日の接見の申し込みは難航した。

事前に連絡していたのにもかかわらず、検察は 「いやー、調書に署名させるだけなんで、ちょっとまってもらえませんか。」

しかし、署名させてからでは遅いに決まっている。

なんとか5分だけと言うことで署名前に接見にこぎ着けた。


私は、博士にまず、  「ここで、どんな調書に署名しても、裁判所で正しいことを喋れば、裁判官は、自分のことを信用してくれるはずだと思っていませんか」 と聞いた。

すると。博士は 「はい」 と答えた。

やはり!博士は日本の調書裁判を侮っている。

私は、 「日本の裁判所はそんなに甘くないですよ。そんなことでどうするんですか。迷惑かけて。日本の技術者はどうするんですか。」 と言いながら、支援のメールをプリントしたものを取り出した。博士に事態を理解してもらうためには、必要だと判断して持参したのである。

このメールアドレスは、支援の声を聞くために弁護団が開設していたのであるが、多くの者が博士を心配し、今回の事件の不当性を訴えていた。

ただ、中には最新のウイルス送ってくる迷惑なやつもいたが…。

「ほら、皆さんが応援してくれてますよ。技術者の人がいっぱいいます。○○○さんも、メール送ってますよ。みんなのために戦わなくてはいけないんじゃないですか。」

博士は、 「○○○さんも、メールくれているんですね。」 と答え、

一瞬間があいて 「分かりました。私は、自分のためじゃなく、みんなのために戦います。」 とキッパリと答えた。

私のサムアップ対して、博士もサムアップを返したとき、もう大丈夫だと確信した。


博士が、捜査側の質問に答えないようにしたという報告が入ったのは、翌日の朝の報告である。 検察官は最初話を聞いてくれるような感じだったのだけれど、信用できないと分かったので黙秘することにしたらしい。

私は、 「それもまた、えらくまた、極端な話やねぇ。」 とつぶやいてニヤリと笑った。

後日、なぜ、何でもかんでも署名していたかについて話を聞く機会があった。

そのとき、博士は、
「いやー、天下の警察・検察が署名しろって言ったから、まぁ、そういうものかなと思ったんですよ。ちょっと協力的すぎましたね。ハハハ」

そんな協力は嫌だ!

2006年11月27日 (月)

弁護団

弁護団は、弁護戦略から逆算されている。

この事件は、刑事弁護と著作権法とITとが複雑に入り組んだ事件である。

さらに、海外の判例・論文を検討できる人が必要である。

また、警察からリークされた博士のネガティブ情報を打ち破るメディア対応も必要である。

裁判所を説得するような法理論の構築も必要である。

やりたいことは山ほどあったのである。

ところで、刑事弁護と著作権法とサイバー法であるが、なんとか2つに詳しい弁護士はいるが、3つすべてにスペシャリストな弁護士はいない。

しかも、刑事弁護のスペシャリストはみんな過労死寸前の状況だし、関西にサイバー法に詳しい人は少なく、詳しくても訴訟の戦闘力に欠ける人が多い。

著作権法に詳しく刑事弁護をこなす人はサイバー法よりもさらに希有な存在である。

弁護団の結集は難航が予想されたが、予想よりも恵まれたメンバーに加入してもらえることができた。

大阪や京都の刑事弁護委員会所属のメンバーにより、弁護は竹槍からガトリングガンなみに進化した。

メルボルン事件に参加している弁護士や国際法律特許を構える弁護士に参加してもらえたことで、海外判例はおろか国内の法理論も理論武装できた。

ちなみに、メディア対応であるが、これが一番難しかった。

事務所の先輩で桂弁護士が、関西のテレビ局に出演していたので、これは幸いとばかりに団長をお願いしたのであるが、テレビ慣れしているはずの桂団長がカミカミで弁護側の弁論要旨の最後を締めくくっていたのはちょっとした笑い話である…。

 

弁護団が初めて弁護団のメンバーと顔合わせしたのは保釈後のことである。弁護団での会食の際、無罪獲得のために戦う弁護団に囲まれて博士は言った。

「私も無罪になったらうれしいんですが、私が有罪になって世の中が良くなるなら、それを最優先にしてください。遠慮無く有罪にしてもらって良いですから。」

それを聞いて博士の無罪の為に集まった弁護団は

「今、それを言うかぁ」

と皆沈黙であった。

ただ、こんな純真というか世間知らずの博士だからこそ、弁護団も弁護に駆り立てられているのかもしれない。

この弁護が博士という絶滅危惧品種の保存であるというのはある意味真実である。

ともかく、数多くの接見をこなし、証拠や法的検討を熱心にこなす戦闘力あるメンバーに恵まれたのが、今回の弁護活動の最大の幸運だったのだと思う。

 

弁護団の中には、諸般の事情で弁護団から脱退した者もいる。

武久秀浩弁護士はその一人である。

彼は、最初に博士に接見した人物で、弁護団の京都メンバーの集結に尽力し、精力的に捜査弁護活動をしていた。

残念なことに弁護団脱退後、私が彼に対面できたのは彼の告別式であった。

もし、この事件で勝利が得られたのであれば、そのいくらかは失われた若き才能によるものであることをここに標しておきたい。

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