あたーにーあっとろーとは?

  • Winny制作者金子勇氏
    こと博士の素顔があまりにも面白いので、弁護人である私の目から、事件を振り返ってつれづれなるままに書きつづってみる、壇弁護士の事務室のスピンアウトブログです。

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2015年12月19日 (土)

あとがき

この話を書き始めた2006年は、Winnyのネットワークを利用した情報漏えい系のウイルスが流行っていた時期でした。

当時、博士こと金子さんに対するメディアの扱いは酷く、まるで、マッドサイエンチストのような扱いでした。

しかし、実際の金子さんは、悪しき意図とは無縁の、純朴で、世間知らずな人物でした。

私の目の前にいる金子さんをみんなに知ってもらいたい。

本当は、被告人にそんな感情移入するのは、刑事弁護のプロフェッショナルとしては、冷静さを欠いて失格かもしれません。

でも、金子さんといると、そんなことがどうでも良いと思えてきたのです。

そういう想いからアターニアットローを書き始めたのですが、文章力ないわ、遅筆だわ、仕事忙しいわで、そんなこんなしている間に、事件が終わってしまって、金子さんの人生まで終わってしまって、当初の目的はどこにいったのやら状態になりました。

Winny事件の最高裁決定がでて、金子さんの無罪が確定した日から、今日でちょうど4年です。

Winny事件は、最高裁の裁判例集や判例六法に載ったりしましたが、Winny事件を知ってはいるけども金子さんを知らないという学生も出てきているようです。

私が、ちんたらしていた間に、Winnyは、昔話になりつつあるようです。

この物語が、金子さんという人を知り、また、思い出す切っ掛けになれば幸いです。

最期まで書き終えることが出来たのは、ただただ、みんなのご声援のおかげです。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

 

 

最後に、私からも

ネットワーク社会の未来が明るいものであることを祈ります。

2015年12月19日

壇 俊光

別れの手紙

金子さん元気ですか。

死んじゃってるので、元気なわけないだろというのは十分わかってます。

ホントはおじいさんになって、京都府警の悪口で盛り上がったついでに伝えようと思っていたんですが、それはかなわないので、今、こんな手紙を書いています。

 

Winny事件の後も、IT関連の刑事弁護はいろいろあって、なんだかんだで、闘ってます。

あれ以降、京都府警の中には私を知っている人もいたりして、ガサのときにお巡りさんに威嚇されたりして、少し迷惑な状況になっていたりします。それでも、事件の経験は意外に役立っています。

ただ、他の事件を経験している中で、Winny事件って違ってたんだなと感じることもあります。

それは、信じる力です。

ネットワーク社会の将来への信頼。自分の中の正義への信頼。

そして、弁護士4年目の経験不足な私に対する信頼。

ネットで叩かれても、NHKから変な手紙をもらっても、地裁で有罪になっても、まったく揺らぐことのなかった金子さんの信じる力。

それがあったから、私は無我夢中で闘えたんだと、今更ながら思います。


あれから、Winny事件で、なぜ勝てたんだろうかって、ときどき考えるようになりました。

いろいろ考えるんですが、いつも結論は、金子さんが、プログラム馬鹿だったからじゃないか?というところに行き着きます。

中島敦の「悟浄歎異」って小説があるんですが、読んだことありますか?

金子さんは、その中で出てくる三蔵法師ってことです。

ただし、あんな人格者じゃないですよ。

で、私が、孫悟空だったのかというと、それも違います。

あんな、大それたもんではないです。

私は、所詮、欠陥人間とか言われてきた程度の存在です。

ただ、金子さんが、プログラム馬鹿だから、何も出来ない人だからこそ、金子さんへの想いが、私にあの一瞬だけの特別な力を与えてくれたんじゃないかなと。


私は金子さんみたいなイノベーターでは無いみたいです。

ただ、そういう人の為に闘って、そういう人の為に心を遣って生きていくことはできるかなと思うようになりました。

あの事件を通じて知った

事件に対する真摯な姿勢。

燃え尽きる程の充実感。

そして、人の人生が変わった瞬間の喜び。

私は、未だ、これに勝るものを知りません。

私は、金子さんのために闘うことで、自分の凡庸な人生を、特別な価値あるものに出来たんだと思っています。

 

私は、これからも

Attorney at Law

であるよう努力し続けるつもりです。

いつの日かまた会う日まで。

 

ありったけの情熱をこめて。

 

 

最期の真実

最高裁が確定してから、博士との連絡はめっきり減った。

私も博士もめんどくさがりのオッサンだし、いつまでも、弁護人がいろいろと口を出すべきではないと思っていたからである。

その後、博士は、東京大学で再び働けるようになった。

ただ、その話を博士から聞いたのではなかったというのは、ちょっと酷い話である。

 

2012年の年末には、弁護団の忘年会が開かれた。

しかし、博士は日程が合わず参加することができなかった。博士に十分に確認しなかった私の責任である。

でも、そのときは大したことと思っていなかった。

結局、さかのぼる2012年6月14日のInteropでのセッションが、博士と会った最後の機会となった。

博士との最期の会話は全く覚えていない。 

でも、そのときは大したことと思っていなかった。

 

博士が死ぬなんて思ってもいなかったから。。。。

 

2013年7月3日

大阪で普通に仕事をしていたときに、博士が危篤という連絡が入ってきた。

私は、思わず、金子さんのお父さんですか?と聞いた。

そんなわけ無いじゃないですか。お父さんは2年前に亡くなってますよ。

そりゃそうだ。

しかし、私は博士の危篤を信じられなかった。

私は、とにかく全ての仕事をストップして、新幹線に飛び乗って病院に駆けつけた。

夜も遅くなった病院で会ったのは、多くの機器に囲まれて、大量の点滴がつながれた博士であった。

博士はもう絶対に元に戻らない。認めざるを得ない現実が私の頭を殴りつけるように襲ってきた。

私は、すこしの間東京に滞在した。ただ、博士の死を受け入れる作業であった。

2013年7月6日

私が大阪に戻った翌日の夕方、博士のお姉さんから訃報を聞いた。

 

私の語る博士の話はこれで終わりである。

 

博士は、残りの人生を、これから日本で生まれてくる技術者の為に使って欲しいという私との約束を守ったことになる。

人は死ぬ。しかし、プログラムは死なない。博士が遺したプログラムは今日もどこかで動いている。

博士が勝ち取った正義は、この日本にとって大切な意味があったと思う。

 

ただ、10年という月日を裁判に費やした博士が、再び研究者として過ごすことが出来たのは半年だけであった。

たったの半年だけ。。。。

もし、刑事事件がなければ、P2Pが彩る世界は違うものになっていたかもしれない。

もし、あのとき嘘をついて罪を認めてしまえば、博士は刑事事件で費やした時間を好きなプログラム開発に充てれたかもしれない。

私は、博士に無辜の技術者としての最期を与えることができたという自分への慰めと、博士から人生の重要な時間を刑事事件で奪ってしまったことへの慙愧の念の入り交じった複雑な思いで、揺れ動いている。

今日も。

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