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2005/09/02

法と命の間で、

救急救命士が、緊急時に除細動機を使った行為について、起訴猶予とした記事を見た。

前提知識であるが、除細動機は医師のみに使用が許されている。また、起訴猶予は不起訴の一種であるが、他の不起訴処分とは違い、犯罪は成立するが事情によって処罰はしないというものである。しかし、起訴猶予は前歴として記録に保存され、何かの折に、刑事事件となった場合は、悪事情として評価されて罪が重くなる場合もある。

法律を杓子定規に適用させれば、除細動は緊急時におこなうものだから、緊急時だからといって、医師以外が使用する理由にはならないという考える考えはあろう。

しかし、日本にいる多くの救急救命士は、再び同じ事が起こったときどうするのであろうか。今度は起訴猶予ではすまないと考えて指をくわえて見ていることを選ぶかもしれないし、除細動機を使うことを選ぶか、それともその他の方法をとるのかは分からない。同じケースは、常に起こりうる。除細動機だけの問題でもない。
法律は、人が死のうとしている時に、それを指をくわえて見ていることを刑罰で求めているのだろうか。

どうも、この事件についてはお役所仕事というものが見え隠れしているような気がする。大切なものはそのようなものでは無いはずなのに。

先日、民事の裁判官が要件事実論がロースクール時代を迎えて生き残るかという話をするのを耳にした。民事裁判官は、危機感を持っているようである。

しかし、同じくロースクール時代を迎え、しかも、裁判員制度を採用するはずの刑事の裁判官からは、従前の刑法理論や事実認定論が生き残るかについての不安感はあまり耳にしない。刑法学者も同様である。

ここでは、深入りはしないが、刑事法では「殺意」や「共謀」等、おおよそ一般人が納得しがたいと思われる理論がまかり通っている。逮捕、拘留、取り調べや証拠法等の刑事訴訟法はさらに酷い状態である。
そのような中で、「ピストルを撃ったら、たまたま相手も自分を狙っていた」というような教室事例に固執している学者理論が国民の支持を受けるのだろうか。

これから、社会的な素養を持った法曹人が増えることを心から願っている。とりあえず、プログラムやネットワーク技術を理解した検察や警察が増えて欲しいものである。

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コメント

http://www.amanogawa.to/mt/archives/000323.html
上記のサイトのコメントにもありましたが、自動的に除細動を行うAEDを搭載するというのが一番の解決方かと思います。
サードウォッチ等でアメリカの救急隊を見ていると、救急救命士が医師に連絡を取り、その指揮の下で緊急措置を行うシーンがあるので、そういう方法も考えられますね。もちろん訓練は必要ですけど。

投稿: minap | 2005/09/02 14:32

>minapさん

もちろん、AEDを搭載するなどの改善の余地はされるべきだと思います。
しかし、AEDが搭載されていない場合、緊急時にどうするか、検討される必要がありますし、私は、一人の救急救命士を人柱にする結論は納得できません。

この事件での検察の態度は、一人のプログラマを人柱としようとしている検察の態度と似ているように思えております。

投稿: toshimitsu dan | 2005/09/02 19:20

そもそも正当行為(35条)あたりの普段見かけない条文の出番はこういうところなんじゃないかという気がします。

投稿: ななしさん | 2005/09/05 21:54

>ななしさん

そうですね。
正当業務行為とすることも考えられますし、緊急避難でもかまわないでしょうし、要件的に問題があるというのであれば、これらの条文の準用でもいいです。

法律論はいろいろあるのですが、それよりも大切なのは、法にたずさわる者が勇気をもって適用できるかだと思います。
命を救った行為を違法としてはならない。そういう意識が少なかったのが残念です。

投稿: Toshimitsu Dan | 2005/09/05 23:21

いわゆる理論刑法の存在意義というのは、実に悩ましいです。現実に存在しないような教室事例を元に、議論を戦わせるのが果たしてどんな意味があるのかと思うこともあれば、生硬な理論はフェイル・セーフの役割を果たすから、安易に現実に接近してはならないと思ったり...。使えない理論といってしまえばそれまでかもしれませんが、もっと道具として使っていくことによって理論は使えるようになっていくのではないかとも思ったりします。「実務に錯誤なし」といいますが、何でも事実認定の世界に押し込んでしまうことには無理があるように思います。

投稿: h | 2005/09/08 22:06

>hさんへ

文章からわかっていただけると思いますが、私は、現状の刑事実務は問題があると思っております。
あえて、苦言を呈すと、このような刑事実務が幅をきかせている現状は、学者や一般の方から実務に対する声が小さいのも原因の一つではないでしょうか。
学者の先生の中にも、実務に対する配慮をされようとしている方は多数いらっしゃると思うのですが、なぜか、御用学者と思える人が目立っているような気がします。

おっしゃるとおり、理論は道具として使われるべきものです。理論は理論として存在するのではなく、結論が妥当かという検討の機会が必要だと思われますし、今後、その点は変わっていくのではないかと思います。

最後に、どんな理論も使う側が愚かな使い方をすれば台無しになります。法曹にはもっと社会的素養が必要だというのは、痛切に感じるところです。

投稿: toshimitsu dan | 2005/09/09 11:31

もちろん先生のご意見の趣旨は理解しております。
むしろ、私の書いていることは、「一体お前は何が言いたいんだ?」と感じられるような右往左往したものであると思います。
たまたまあるLSの実務家教員(私は民事系の教員です)として、刑事法の授業についての研究者教員と学生の対話の噛み合いの悪さを目の当たりにしまして...。それを未消化のまま書いてしまったというのが実態であります。

でも、今までそういう接点があまり無かったわけですから、一つの機会であると思っています。研究者の方には、現実の問題を、あまりに遠いところから突き放して批判するのではなく、一歩近寄ってきて「影響力ある批判」をして欲しいと思っています。

私自身は刑事事件をあまりやっていないのですが、本件では理論的な論争が事件の中で展開されているのではないでしょうか。もちろん日本の刑事裁判ですから「理」に肩すかしをする判決を出すのはお手の物で、論争に勝ったからといって良い結果が直ちに出るとは限らないのが辛いところですが。

投稿: h | 2005/09/09 13:20

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