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2011/01/03

2011/01/03

Roots2

戦後間もないころである。あるところに1人の少年がいた。

ある日、その少年の自宅で飼っている牛がどこかに逃げた。

少年は、一生懸命世話したその牛が逃げたことが許せなかったらしい。

牛が家に帰ってきたら、ぶん殴ってやろうと思って待ち構えていた。

牛は、やがて、帰ってきた。

しかし、少年は、ある男性から、「怒ってはいけない。帰ってきたのに怒ったら今度はもっと遠くに逃げる。良く帰ってきたって褒めないといけない。」と諭されて、己の器の小ささを恥じて、ぶん殴るのは止めたらしい。

私は、最近、この言葉を思い出すことが多い。

前述のある男性は、九州の生まれである。

彼は、子供のころに実の父親が亡くなり、父の弟である叔父さんと母親は再婚した。

いわゆる逆シンデレラ状態であるが、九州の方は家意識が強いので、そう言うことは珍しくなかったそうである。

彼は、やがて、正義感の強い人に成長した。
正義感が強すぎて、喧嘩っ早い性格だったそうである。

喧嘩っ早い性格は結婚してもかわらなかったようで、彼が新婚のころ、彼の妻の近くで喧嘩がが始まった。彼の妻は「今日は主人がとなりにいるから良かった」と思っていたそうである。そして、隣を見たが、夫はそこにいない。よく見ると喧嘩をしていたのが、となりにいるはずの自分の夫だったということもあったそうである。

そんな正義感が強く挑戦的な彼が、家のしがらみから離れて、満州に移り住みたいと考えたのは、時代の必然だったのかもしれない。

戦前の満州は、新天地での成功を求めて、多くの日本人が移住していた。
当時はイケイケの日本である。日本人の多くは、現地の人に対して差別意識が強かったようで、現地の人に対して酷いこともあったようである。
しかし、正義感が強い彼は、そのようなことを良しとしなかったため、やがて、満州の人に信頼されるようになったそうである。

彼は、満州に永住しようと決意した。いったん帰国して妻や子供を連れて来ようと決意したところ、満州の人たちからは、日本に帰ってくれるなと、ずいぶん、引き留められたそうである。

珍しい話であるが、この時代にもそういう人がいたようである。

彼は、一時帰国のつもりだったのだが、彼が、再び満州の地を踏むことは無かった。

彼は、乳飲み子以外は、日本の親戚に預けて、生活が安定してから呼び寄せようと思っていたそうあるが、彼の親戚が彼の子供を預かることを断わったので、満州行きを断念せざるを得なかったのである。

結局、彼は、九州で、実家の農家として生涯を終えた。

ただ、挑戦的ではあった。

当時、無かったトマトの栽培を始めたり、周りの農家が真似してトマトを作りすぎるようになったら、トマトを使ってソース作りを始めたのは、日本の先駆け的な立場らしい。

これからは、自動車がすれ違える広い道が必要だということで、周りの農家を説得して、市場までの2車線の道路を造るようにしたのも彼である。彼が作った道は、今も福岡の田舎にある。今見ると、ずいぶん細い道ではあるが。

彼は、アイデアマンではあったが、金銭的には恵まれなかった。先祖から受け継いだ田畑の多くを手放した。功績に十分報われた訳でもない。自分が亡くなったときには、自分が作った道を通ることもできなかった。

ただ、妻には生涯愛されたようである。彼の妻は、彼が亡くなったずっと後も「よか男じゃった」と言っていた。

それから、ずっとずっと後の話になる。

彼の孫が、苦学の末に弁護士になった。

孫は、祖父に似たのか、差別意識が人より少ないらしく、在日朝鮮人を弁護する弁護団にも加入したり、新しいチャレンジが好きでサイバー法の弁護なんてやってみたりしている。

やることの割に金銭的に恵まれてないところまで、祖父に似ていたりする。

 

これが私の話である。
ついでにいうと、牛をぶん殴ろうとしていた器の小さい少年は私の父である。

祖父は・・・私が生まれるずっと前にこの世を去った私の祖父は、激動の時代を一生懸命に生きた。

私は、先日、在日朝鮮人の団体の総会に、ゲストとして招待された。その理事長が「困ったときに、助けてくれたのは、日本人の弁護士だった」と話すのを聞いて、私は祖父のことを思い出した。

祖父は、今の私を見て、誇りに感じてくれるだろうか。

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