慰安婦以来、支持者を激減させている橋下市長であるが、今度は懲戒請求らしい。
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日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長による旧日本軍の従軍慰安婦をめぐる発言で、大阪弁護士会所属の複数の弁護士が今月中にも、橋下氏の懲戒を同弁護士会に請求することが22日、分かった。準備を進める弁護士によると、橋下氏が慰安婦を「当時は必要だった」と発言し、在日米軍に風俗業活用を求めたことについて、基本的人権を無視し、女性を差別しているなどと指摘する。橋下氏は1997年に同弁護士会に所属。
どうせ、あの先生が中心になってやってるんだろうと思うが、私は、正直、懲戒請求には反対である。
彼の発言は愚かではあるが、弁護士としてのものではない。かつて、彼が、TVで懲戒請求の濫用を薦めたことは許されるべきではないとおもうが、回りの者までが、彼と同じレベルに自分を貶める必要は無い。
そもそも、この問題、彼の論理すり替えもそうであるが、彼を批判するコメンテーターやマスコミのレベルの低さにもうんざりすることが多い。
そんな折り、FBで、とある記事を見て、非常に心にのこった。
あまりにも心に残ったので、無許可で全文を引用することにした。ご容赦いただきたい。
写真は、私の父が18か19才。
第二次世界大戦の終わり間際に、徴兵されたときの軍服姿です。
父にとって、わたしは50才になるころ産まれた第1子(母は23才!)です。だから、わたしの世代にしては珍しく父が戦争体験者なのです。
父のアルバムで、この写真を見つけ、かっこよかったので、父の日の贈り物に絵皿に焼き付けてもらいました。
でも、絵皿を見た父は、複雑そうな顔でお礼を言ってくれて、当時はなんでもっと喜んでくれないのか、不思議でした。今は、父の気持ちがわかりますが。
父に戦争の話を初めて聞いたのは、中学生の頃。
兵隊で中国大陸、ビルマまで行った父の話は、楽しい話でした。ビルマでは、「日本の兵隊さんが来てくれた」と村で大歓迎を受け、いろいろな料理でもてなしてくれ、中にカレーがあって、でも、これは辛いから日本人には無理と言われ、意地になって食べたら、気絶してしまったとか。
銃撃戦の中、後方で車の用意をしていたとき、流れ玉がスネをえぐり、倒れながら、「やった!野戦病院送りだ。看護婦さんにやさしく看病してもらえる」と思ったら、恐い軍医さんに「玉は貫通してるから、消毒して、あとは唾付けとけば治る」と、すぐ戦場にもどされ、あと一歩、前に出てればなーと、へこんだスネを見せながら、笑ったり。
高校3年の時、世界史のレポートで第二次世界大戦についての課題があり、関係資料を漁っていたら、従軍慰安婦問題の資料に出会いました。
父に本当にあったのか尋ねると、「あったよ。」
日本から来た女郎さんや芸者さんは、偉い人の愛人として迎えられていた。一般兵士には、朝鮮人の女の子たちがあてがわれ、粗末な小屋の前には、兵士が列をなしていたそうだ。
父に「お父様も並んだの?」と聞くと「可哀想でそんなことできないよ!」
まあ、聞く娘もなんですが。
「かわいい子たちだったねー。時々、休みがあり、その時は朝鮮の女の子たちを河原に遊びに連れて行ってあげたんだ。お礼にって、みんなで朝鮮の歌を唄ってくれた。看護婦募集に応募した子や、河原で洗濯していて、誘拐されたって子たちだった」
「野営地を移動する時、自動車(トラックの荷台)に具合の悪い女の子たちを乗せたら、上官からお父さんたち、死ぬほど殴られて、その子たちは、歩いてこれるならついて来いと、そこに捨てられた。可哀想でね。生き延びてくれていたらと思うよ」
父が語ってくれた戦争。
事実として、存在した拉致され朝鮮人の女の子の従軍慰安婦。
少なくとも、父は亡くなるまで、彼女たちに申し訳ないと思って生きてきた名もない少年兵士でした。
大阪市長で維新の共同代表は、どの立場でしゃべったのか知りませんが、非常時兵士には従軍慰安婦が必要だったなんて言われると、父まで侮辱されたような気になり、不愉快極まりないです。
人として、無理やり慰安婦とされた女の子たちに同情し、せめて自分たちは加わらない決意をしていた兵士もたくさんいたのです。
年のいった兵隊さんで、「自分の娘と同じくらいの女の子たちが可哀想だ」と言って、加わらない人もいたそう。
女性は性の道具のように、平然としかも、戦争を知りもしない人が、なぜあんな発言を公共の電波でするのだろう。なぜ、彼を支持し続ける人がいるのだろう。同じ日本人として、情けなさすぎる。
軍がやったのか、民間がやったのかなんて、わたしにはわかりません。
ただ、戦地で、朝鮮人の女の子の従軍慰安婦に出会ったわたしの父は、今、存命ならば、心からの謝罪をしたに違いない。何もできなくて、申し訳なかったと。
きっと、話を聞いていた17才のわたしと父の会った朝鮮人の女の子たちは、同い年くらいだったことでしょう。子を持つ親として、娘を持つ父として、この時の父は、どれほど思うことがあったろうか。
親となったわたしは、語ってくれた父の勇気を誇りに思います。口をつぐむこともできたのだから。この事実を語ってもらえて、感謝しています。わたしは、謝罪の心を持てるから。そして、人に語ることが出来るから。
最後に、
父が河原に遊びに連れて行った女の子の中で、河原で拉致された子が話ったことです。
「こういうところで、洗濯していたら無理やりさらわれて車に乗せられ
、ここに連れて来られた。きっとお母さんは、わたしが川に落ちて死んだと思って、泣いているだろう。生きていることを知らせたい。でも、今の自分は見せたくない。どうすればいいんだろう。戦争が終わったら、お母さんに会いたいのに。」
この少女たちと、今、街中ですれ違う中学生や高校生との違いは、産まれた時代と場所だけ。同じ女の子です。
隣を歩いている女の子が、突然、拉致されて、不特定多数の男性の相手をする慰安婦にされてしまうなんて、考えられますか。
怯えて泣き叫ぶ女の子たちを殴りつけ、力ずくでレイプする。あきらめて抵抗しなくなった女の子たちを来る日も来る日も、集団レイプする。
それが従軍慰安婦の実態ですよね。
喜んで自分が兵隊さんたちの役に立ってるなんて、考える女の子がいると思う人は、いるのでしょうか。
他の国もやっていようがいまいが、そんなこと言う必要はない。
自分たちのやった行為のみを考えるていくべきです。そして、言い訳やごまかしをするのではなく、人と人の感情でお詫びすることは、しなくてはいけないと思います。
これは、私の創作ではありません。
日本軍に従軍した今は亡き父が、語ってくれた事実です。
私には、ここで書かれていることが、真実かどうかを確認する術は無い。
これを読んで、どう思うかは、各自の問題である。
ただ、戦争が常に弱者に犠牲を強いるものであることだけは忘れてはならないと思う。
必要なのは、扇情的な単語のやり取りではない。