じょいんとあくしょん
昨日、反社組織のトップに対する死刑判決が下されたという記事をみた。
量刑はともかく、共同正犯を免れるのは難しいと思っていたのでそれほど驚きではない。
ただ、共謀共同正犯の基本を理解してないと何のことだか解らないだろう。
というわけで、ほとんど素人を無視した解説をすることにする。
今回は、共謀共同正犯が問題になった訳であるが、この共謀共同正犯というのは、実際に実行していなくても共同正犯に問えるという理論である。
そもそも共謀共同正犯は、直接実行した奴が悪くて間接的に関与した者は従属的であるという刑法典の規定に対して、組織の上位の者が共犯というのはおかしいということから正犯にするために生まれた理論で、いわば裁判所の処罰への意欲が法をねじ曲げた理論である。
で、この共謀共同正犯が最高裁で注目されたのは練馬事件(最判昭和33年5月28日 刑集12巻8号1718頁)である。
練馬事件というのは、労働争議に関連してお巡りさんが撲殺された事件である。
当時、共同正犯というのは、実行行為を共同してなければだめと考えられていたので、共同正犯は成立しないと激しく争われた。
この事件で最高裁は、共謀共同正犯を認めつつ
共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が認められなければならない。
と判示した。
この判例により「共同意思主体」説が大流行するとともに、「相互補充関係」「自己の犯罪」「謀議」の要件が示された。
ただ、この時点では、「謀議」とは、具体的に話をするものを意味すると考えられていた。
それが大きく変わったのはSWAT事件(最判平成15年5月1日 刑集第57巻5号507頁)である。
これは、暴力団間の抗争中に若頭が護身用に銃を所持していたことについて、組長が若頭と共同所持していたとして共謀共同正犯に問われた事案である。
直接の正犯である若頭は一貫して、組長からは銃の所持を禁止されていたが、自分の判断で所持したと言い続けていたのである。
これについて、最高裁は、
個々の任務の実行に際しては,親分である被告人に指示されて動くのではなく,その気持ちを酌んで自分の器量で自分が責任をとれるやり方で警護の役を果たすものであるという共通の認識があった。
自発的に被告人を警護するために本件けん銃等を所持していることを確定的に認識しながら,それを当然のこととして受け入れて認容している。
前記の事実関係によれば,被告人とCらとの間にけん銃等の所持につき黙示的に意思の連絡があったものと認められる。
と判断した。
この裁判例では、「相互補充関係」の要件も「自己の犯罪」の要件もどこに行った感があるが、ここで問題にされたのは「謀議」である。
というのも、黙示の意思連絡というのは、一般の法律家の理解では、証拠を総合すれば、明示的に意思連絡したのと同視できるような事実関係がある場合を言う。
しかし、子分の誰かが銃を持っていると認識していても、明示的に銃の所持を話合ったことと同視できる程の事実関係はない。
そこで、それを補うのが指示される前に動くのが当然という暴力団という組織の特殊性であり、この裁判例は暴力団という組織の特殊性故の理論と考えられていた。
深澤裁判官の補充意見でも
被告人はA組の組長としてこれら実行行為者に対し圧倒的に優位な支配的立場にあり,実行行為者はその強い影響の下に犯行に至ったものであり,被告人は,その結果,自己の身辺の安全が確保されるという直接的な利益を得ていたものである。
と暴力団組織の特殊性に言及している。
また、謀議の相手が、具体的に誰ということを認識して無くても、子分の誰か程度の認識でも謀議であるとされたのである。
これも暴力団組織の特殊性くらいに考えられていた。
このように暴力団相手の特別理論と思われていた黙示の意思連絡であるが、実際は違った。
それがHPS事件(令和3年2月1日)である。
これは、動画投稿サイトとライブチャットで無修正なものを配信した配信者と、配信システムの外注先の社長と相談役が共謀共同正犯に問われた事案である。もちろん、配信者と外注先に意思連絡らしきものは全く存在しない。
他にも多数の論点があるが共同正犯について最高裁は、
本件各サイトに無修正わいせつ動画が投稿・配信される蓋然性があることを認識した上で,投稿・配信された動画が無修正わいせつ動画であったとしても,これを利用して利益を上げる目的で,本件各サイトにおいて不特定多数の利用者の閲覧又は観覧に供するという意図を有しており (中略)無修正わいせつ動画を投稿・配信することについて,黙示の意思連絡があったと評価することができる。
と判断した。
ここでは、SWAT事件で示されていた強度の支配関係もない。認められるのは、ただ、「利用関係の認識程度」である。
せいぜい不特定多数に対する幇助の意思程度とも言えよう。でも、幇助ではなく共同正犯なのである。
Winny事件以降、京都で幇助での起訴は決裁が下りなくなったから、共同正犯で起訴しているとも聞くが、そんなことはどうでもいい。
誰かもわからないシステムの利用者とシステムの外注先の社長らとの間に謀議が認められることになったのである。
つまり、不特定人との謀議というのが完全に認められたとともに、その不特定の利用者のうちに日本のユーザがいてシステムを日本の法律的に違法な利用方法で利用することで自分も利益を得ているという程度認識(その不特定の利用者のみから利益を得るというわけでも、主たる利益というわけでもなく、その不特定の利用者からも利益を得ている程度の認識があればいい)があれば共同正犯ということになったのである。
要するに、システムの外注先は、システムを用いて悪いことをしている人がいると認識していたら謀議有りということである。
いや、システムに限らない。なんでもありか。
この事件の最高裁判例解説は、事例判断であることを強調しているが、説得力の無さは半端ない。
練馬事件以来の「謀議」の要件は、こうやって判例変更の手続きを経ずに完全に骨抜きにされたのである。
じゃあ、共同正犯じゃなければいいのかというと、間接正犯では、社長というだけで、間接正犯になるという裁判例もでていて、間接関与者の処罰は何でもありの世界になっている。
こういう現状に鑑みれば、暴力団組織のトップに共謀共同正犯に問われるのは極めて容易と言わざるを得ない。
私は、組織のトップの方が
「公正な判断をお願いしたんだけど、全部追認、追認。あんた、生涯、この事後悔するよ」
と言ったという記事を見て、
いや、親分さんでも、日本の刑事司法が公正とでも思ってたんだ!
と驚いたところである。
既に日本の刑事司法は宗教裁判レベルになっている。
ただし、自分が捕まるまでそのことを自覚しない。