Roots2
私が、子供のころに聞いた話がある。
昔々あるところに1人の少年がいた。
ある日、その少年の自宅で飼っている牛がどこかに逃げた。
少年は、一生懸命世話したその牛が逃げたことが許せなかった。牛が家に帰ってきたとき、ぶん殴ってやろうと思って待ち構えていた。
牛は、やがて、帰ってきた。ぶん殴ろうとしていた少年は、ある大人から、「怒ってはいけない。帰ってきたのに怒ったら今度はもっと遠くに逃げる。良く帰ってきたって褒めないといけない。」と諭されて、怒るのを止めたそうである。
私は、最近、この言葉を思い出すことが多い。
私は、そのような大きな器で、人を受け入れることが出来ているのだろうか。
前述の大人は、九州の生まれである。
その男の人は、子供のころに実の父親が亡くなり、父の弟である叔父さんと母親は再婚した。いわゆる逆シンデレラ状態であるが、九州の方は家意識が強いので、そう言うことは珍しくなかったそうである。
彼は、やがて、正義感の強い人に成長した。
正義感が強すぎて、喧嘩っ早い性格だったそうである。
結婚しても瞬間湯沸かし器はかわらなかったようである。
彼が新婚のころ、彼の妻の近くで喧嘩がが始まった。彼の妻は「あっちで誰か喧嘩しているけど、今日は主人が横にいるから良かった」と思った。そして、隣を見たが、夫はそこにいない。よく見ると喧嘩をしていたのが、夫だったということもあったそうである。
そんな正義感が強く行動的な彼が、家のしがらみから離れて、満州に移り住みたいと考えたのは、時代の必然的な流れだったのかもしれない。
戦前の満州は、新天地での成功を求めて、多くの日本人が移住していた。
当時はイケイケの日本である。日本人の多くは、現地の人に対して差別意識が強かったようで、酷いこともあったようである。
しかし、彼は、正義感が強く、そのようなことを良しとしなかったため、満州の人に信頼されたそうである。
満州の人に受け入れられた彼は、満州に永住しようと決意した。いったん帰国して妻や子供を連れて来ようとしたところ、満州の人たちからは、日本に帰ってくれるなと、ずいぶん、引き留められたそうである。
私は、この話が大好きである。この時代にそういう人がいたのである。
彼は、一時帰国のつもりだったのだが、結局、彼が、満州に行くことは二度と無かった。
彼は、乳飲み子以外は、日本の親戚に預けて、妻と乳飲み子を連れて満州にいって、生活が安定してから、残りの子供達を呼び寄せようと思っていたそうである。しかし、彼の親戚が彼の子供を預かることを断わったので、満州行きを断念せざるを得なかったのである。
結局、彼は、九州で、家業の農家をして生涯を終えた。ただ、決して、現状に甘んじるだけではなかったようである。当時、無かったトマトの栽培を始めたり、周りの農家が真似してトマトを作りすぎるようになったら、トマトを使ってソース作りを始めたり、なかなかのアイデアマンだった。
これからは、自動車がすれ違える広い道が必要だということで、周りの農家を説得して、市場までの2車線の道路を造るようにしたのも彼である。彼が作った道は、今も福岡にある。今から見ると、細い道ではあるが。
彼は、アイデアマンではあったが、金銭的には恵まれなかった。功績に十分報われた訳でもない。自分が亡くなったときには、自分が作った道を通ることもできなかった。
ただ、妻には生涯愛されたようである。彼の妻は、彼が亡くなったずっと後も「よか男じゃった」と言っていた。
それから、ずっとずっと後の話になる。
彼の孫は、苦学の末に弁護士になった。
彼の孫も、血は争えないようで、新しいことに取り組んでサイバー法なんてやってみたり、差別意識が少ないのが幸いしてか、在日朝鮮人を弁護する弁護団にも加入したりもした。
金銭的に恵まれてないところまで、祖父に似ていたりする。
これが、私の祖父の話である。
もちろん孫とは私のことで、ついでにいうと、牛をぶん殴ろうとして諭された少年は私の父である。
私は、在日朝鮮人の団体の総会に、ゲストとして招待されたことがあった。その理事長が「困ったときに、助けてくれたのは、日本人の弁護士だった」と話すのを聞いて、私は祖父のことを思い出した。
祖父は・・・私が生まれるずっと前にこの世を去った祖父は、激動の時代を一生懸命に生きた。
祖父は、今の私を見て、誇りに感じてくれるだろうか。
ときどき、そんなことを考える。
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